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2008.11.20[木] 鬱の外側

・カテゴリ分けの意味がないと思ったので、「image」と「remains」以外は全部一緒くたにする。

・久しぶりにremainsの文章を読んだ。書いたのは今年の4月、自主断薬して1ヶ月弱の頃、(恐らく離脱作用で)体調が最悪だった時期に、自分の行動はきっと自分をまともな方向に導くはずだ、と自分に言い聞かせるように、書いたんだと思う。

・病気全開だった時期に、好きだったサイトが更新頻度が下がったなと思ったら突如跡形もなく消えてしまい、随分寂しく心細い思いをした。そのサイトは鬱病を患っている人の、日記というより自伝のようなボリュームのテキストサイトだったのだが、閉鎖間際「鬱が治った」という趣旨のテキストがちらほら見られるようになった。当時鬱の花が満開だった私にとっては狐につままれたような話で、まさかそんなことあるかいな、自認するようなもんじゃなかろう…と思っていた。しかし、今ならなんとなく理解できる、様な気がする。(勿論、氏の「鬱が治った」というのと全く同じ感覚ではないだろうが)

・そのサイトに載っていた「手記」はとても魅力的だった。芸術性をも感じていた。しかし、自分自身を振り返ってみると、病気全快の時に書き綴ったいかなるテキストも、本人にとってはただの「戦いの跡」あるいは「吐瀉物」であり、自分で見返すとただ不快感が増幅されてしまうだけの代物だ。もし氏が同じように思っていたなら、その「芸術性っぽいもの」に多少の未練を感じたとしても、全て捨ててしまった方が良いと判断した為、跡形もなく消されてしまったのではないだろうか。あくまでも推論の域を出ませんが、鬱全開の時本当に好きだったんですこのサイトの文章。昔から、好きなものには自分を同化させてしまいたくなるグロテスクな性分です。

・鬱全開の時に感じられた芸術性は、現在の(鬱の外側の)自分において、何の得にもならないという自覚、さらには、その芸術性は今となっては芸術でもなんでもない、と思えること。remainsを書いた直後、「自傷系アート」という呼称への批判を書いたが、この頃から(不完全ながら)自分は鬱の外側にいるという感覚はあった。しかし、「自傷系アート」ってあらためて酷い言葉だな。自傷するような精神状態の人間にとっちゃ、アートもクソもねぇよ(断言)。

・自傷は私にとっては「癒し」であり「補填」だったので、「鬱状態でテキストを綴ること」と似たような効果をもたらしていたといえる。その時々の自分に対する「癒し」にはなり得たとしても、その結果として残るいろいろ(テキスト=吐瀉物、傷口=痕跡)に向かって「アート」とか言われてもちょっとな。どんだけの暴言ですかあんた。外側から言うのは勝手だけど、当事者はそれどころじゃない。だって社会性を失っているんだから。社会性だけでなく、財産、人間関係、生命の安全、全て失っているんだから。

・「BLUES」を、文学的趣をもって、淡々と表現すること、を目標にしている。ここでの「文学的趣」は「物語」「おはなし」と言い換えてもいい。私には「物語る技術」が無い。物語る技術、方法、手法を学びたいと思う。「物語の不在」は自分に一番いえることだと感じる。物語る力。物語を理解する力。怠惰ゆえ、瞬発力とか新鮮さとかを真に受けてしまった、昔の私を猛省する。
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